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【訃報】小野田寛郎氏が死去 91歳【動画】小野田寛郎氏、靖国神社で小泉首相を痛烈に批判!

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■小野田寛郎氏、靖国神社で小泉首相を痛烈に批判!

http://youtu.be/4R9JavyavG8
(小野田寛郎氏、小泉純一郎を叱る)

■大東亜戦争 開戦の詔勅
http://www.geocities.jp/taizoota/Essay/gyokuon/kaisenn.htm

■平成23年8/15戦歿者追悼中央集会(小野田寛郎氏)

http://youtu.be/TEAez31LoQQ

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◎小野田 寛郎(おのだ ひろお、1922年(大正11年)3月19日 - 2014年(平成26年)1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。
情報将校として太平洋戦争(大東亜戦争)に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰還を果たす。

小野田 寛郎(おのだ ひろお、大正11年(1922年)3月19日 - 平成26年(2014年)1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。 平成26年1月16日午後4時29分、肺炎のため都内の病院で死去。情報将校として大東亜戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、戦争終結から29年目にしてフィリピンルバング島から帰還を果たす。
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【必見】まだ太平洋戦争と呼びますか?
【大東亜戦争に込められた想い】

https://www.youtube.com/watch?v=PzymgZVDPAM
※「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」に従わなかった海軍・山本五十六

【田母神俊雄】日本人が知らなければならない太平洋戦争の真実 【日本人よ目覚めよう】

http://youtu.be/lS0u6as6KAM
・コミンテルン・ヴェノナファイル・・・・

【必見】日本人が知っておきたい戦争の真実Part.1

http://youtu.be/NJGeizNJMBU

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産経新聞 2014.1.18
帰国直後の様子を写真集として出版「年月経ても色あせない方だった」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140118/trd14011801090004-n1.htm

◎貫いた誇りと「不撓不屈」 
40年前の取材キャップが見た小野田寛郎さん
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140117/trd14011719390017-n1.htm
2014.1.17 産経新聞
小野田さんの戦いは終わった。91歳の生涯を貫いたのは「誇り」と「不撓不屈(ふとうふくつ)」だった。
40年前のあの衝撃は、いまも鮮明に記憶している。ルバング島での初めての会見は、私たち報道陣への敬礼で始まった。質問にはひとり一人と正対し、よどみなく答えていった。手製の軍服は繕われ、ボタンもしっかりついていた。
毅然(きぜん)とした立ち振る舞いは何なのか。謎が解けたのは、28年後。再会した小野田さんは「大切なことは“らしさ”です。“らしさ”とは自分の役割が何であるかを把握し、責任を持って遂行すること」と話した。孤独な戦いを続けながら「日本人の誇り」に通じる“らしさ”を磨き、表現したものだった。
帰還後、小野田さんはブラジルへ渡り、成田空港よりも広い牧場経営に成功した。なぜ、そこまで戦い続けるのか。
「自然が好きなんですよ。その気になればどこでも食っていけますから」
あの牧場は、小野田さんの意地の証ではないか。「自分は戦争屋じゃない」との思いもあっただろう。
あの日と同じように、背筋を伸ばし、謙虚でつつましく歩み続けてきた小野田さん。風化しない生粋の人間を、また一人、失ってしまった。
(当時の取材キャップ・産経新聞元常務 山下幸秀)

◎ルバング島で潜伏29年、小野田寛郎さんが死去
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20140117-OYT1T00509.htm?from=navr
第2次世界大戦中にフィリピン・ルバング島に派兵され、終戦後も約29年間、ジャングルで潜伏生活を続けた元陸軍少尉の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが16日、東京都内の病院で死去した。
91歳。告別式は近親者で行う予定。喪主は妻、町枝さん。
小野田さんは和歌山県出身。1944年12月に情報員として、ルバング島に派遣され、終戦後もジャングルに身を隠し続けた。現地警察との銃撃戦で生存していたことが判明し、74年3月、元上官の説得で帰国を決意。約30年ぶりに母国の土を踏んだ。終戦から27年間にわたってグアム島に隠れ続け、72年に帰国した横井庄一さんに次ぐ、旧日本兵の帰還となった。
帰国後、兄のいるブラジルに移住したが、84年からは、キャンプを通じてたくましい青少年の育成を目指す「自然塾」を全国各地で開くようになった。89年には私財を投じて財団法人を設立。この功績で2005年に藍綬褒章を受章した。
最近は全国の小中学校などで講演をし、戦争体験を語る活動をしてきた。親族によると、3年ほど前に膵臓がんなどを患い、今年1月から入院していたという。
(2014年1月17日11時40分 読売新聞)

◎死去の小野田氏「日本で死にたい」
 ブラジル移住、牧場経営「苦ではない」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140117/trd14011714000012-n1.htm
2014.1.17 13:55
「日本で死にたい」。16日死去した小野田寛郎さんは2012年2月、経営していたブラジルの牧場で共同通信の取材にそう話していた。
フィリピン・ルバング島から帰国後、親族を頼って1975年にブラジルに移住。晩年は東京都内で暮らしていたが、中西部カンポグランデ郊外に設立した「小野田牧場」に毎年通っていた。
小野田さんは「牧場が軌道に乗るまで10年かかったが、ルバング島での苦労を思えば全く苦ではなかった」と語り、「密林暮らしが長かったので暑い方が好き」と夏場にブラジルに通ってきた理由を話した。
一時は体調が悪化し、12年以降はブラジルに来ていなかった。取材では「人に迷惑を掛けず、家族の手を握って死ぬのが理想。幼なじみに最期に会えるから日本で死にたい」と語っていた。(共同)
2014.1.17 産経新聞
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余談ですが・・・
「奥さま・・それ、コンスです・・・。」
画像:小野田町枝氏(小野田夫人)







この年代の方の手重ねポーズは、
きっと美智子皇后の影響かな?

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[昭和天皇 香淳皇后]… 酒井美意子・著「皇室に学ぶマナー」より

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